「持てる国」と「持たざる国」/ Fantomo Etiopia
『学士会月報』587号(1937.2.20)に掲載された“Fantomo Etiopia”名義の記事。(Fantomo Etiopia についてはこちら)著作権保護期間満了(一般に周知されていないペンネームで、公表後50年経過)のため、以下に全文掲載します。ただし、歴史的仮名遣いは現代仮名遣いに、現在あまり使わない漢字は平仮名になおす、または補記する([ ]部)など、読みやすくしてあります。
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「持てる国」と「持たざる国」
Fantomo Etiopia
近年の世界的不安定の状態を目して「持てる国」の現状維持的希望と「持たぬ国」の現状打破の欲求との争いであるとする見解が広く行なわれている。勿論これをもって世界から平和が失われたことの唯一または最大の原因と見なすことの不当は言うまでも無いが、この見解は少なくとも現状の一面だけは正当に言い表している。
ところでこの見解は単に現在の国際政治の場合にあてはまるだけではないようだ。考えてみれば当然のことであるが、すべての改革運動は何らかの意味で現状打破の試みでもあるがために、そこにはそれぞれの形において「持てる国」と「持たざる国」の対立が起こって来るのはけだし止むを得ない[止むを得ないと思われる]ことであろう。このことを今更の様に感じさせられたのは、先日(1月13日-17日)五回にわたって東京朝日新聞に掲載された木下杢太郎氏の「縦組・横組」と題する一文である。
氏はこの一文において、近来日本の雑誌・刊行物に横組が増して来たこと、そして外国語を原綴りのまま挿入する傾向が増大して来たこと、横組の採用はローマ字書きへの前段階をなすものに違いないこと、しかして、ローマ字論者は外来語なかんずく[とりわけ]漢系語を排斥して「ことばなおし」ということをやっているがこれは効果無き試みにすぎず、彼等がもし日本文化の低下を欲せぬならば彼等は必然的に漢系語にかえて欧米系語を採用せねばならなくなるであろうこと、従ってそうなれば「ユマニテエ」即ち和漢の古典の教養は阻害され一般文化の上に大害をかもす憂があること、(もっとも漢字的古典的教養を全然外国語による教養に置き換えるつもりならそれもよいが、それは現状から見て不可能に近く且つ歴史的伝統にそむくものであること)、かかる結果をおもんばかれば横書き・縦書きの事といえども漫然と時の歩みに任せて置いてはいけないこと、殊に国字問題の如きは当座の便宜主義を以て定むべからず、「一国最高の知識と知恵を動員して」吟味されねばならぬと主張していられる。
木下杢太郎氏といえば人も知る現代日本の代表的知識階級人である。従ってその説には少なからぬ権威があるとされよう。事実この主張中においても、横組はローマ字書きへの前段級であると断ぜられた点、古典的教養の必要を論じられた点、国字問題の重要性を指摘しこれを「当座の便宜主義」によって決定するの非を称えられた点、流石と思わしむるものがある。しかし横組の結果として出現することあるべきローマ字書きが漢系語を排斥するが故に、それは「ことばなおし」の道を辿って日本語を貧弱化し道徳を廃らすかあるいはまた外国語導入の穽[おとしあな]へ陥って日本文化へ大害を来たすか二途の一を選ぶ外はないとする一篇の中心的主張は誠に惜しむべき的外れの見解である。
ただし私は今氏の主張を全面的に批判しようとは思わない。それはまた私の任でもない。ただ私は氏の如き代表的文化人が我々かけだしの国字問題研究者といえども誤る所のない問題について何故にかくも的外れの考えを持たれるに至るのであろうかを考えて、みたいのである。
エスペラントの創案者ザメンホフ博士――この人は民族間の憎悪ということにいたく心を傷めた人であったが――がかつて言ったことがある。「我々が他の民族を憎むのは彼等の経済的搾取を恐れるからではなく、むしろ彼らを憎むが故にその経済的搾取を云々するのだ。」こうした見解はマルキシズム流行語の日本においてはもはや一般に受け入れられ難い考えかも知れぬが、しかし社会の個々の事象についてはこの言が正当にあてはまる場合が少なくない様に思われる。現代の文化を背負って立つ代表的文化人たち――彼等は国際政局における「持てる国」と立場を等しくする――が往々ローマ字論などを目の敵にするのは、実の所、むしろその「感情的要約」また趣味によってローマ字論を嫌うがためにその欠点を鵜の目鷹の目で探り出すのではあるまいか。
現在の国際政局の不安の顕著なる一表象が「持てる国」と「持たざる国」の対立であると同時に現代日本文化の混乱の顕著なる一表象は既成の文化を沢山に「持てる人々」の現状維持的希望とこれを「持たぬ人々」の現状打破の要求との対立である。そして「持たざる国」の生存権確保のための死にもの狂いのやり方がしばしば「持てる国」の神経をかきみだすと同じく、文化上の「持たぬ人々」の率直大胆な試みは「持てる人々」の趣味にふれることもしばしば起こるのである。この対立の解消は「持てる国」「持てる人々」が「持たぬ国」「持たぬ人々」の要求を察して、自らの持てる物資的・文化的富を「持たぬ国」「持たぬ人々」にいかに合理的に均霑[キンテン:平等に恩恵や利益を受けること]せしめ得るかを考えることによって平和的に解決し得るべきであるけれども、両者ともなかなか自発的にその挙に出ないのは残念なことである。例えば本会員――それは文化的世界における「持てる国」の代表勢力とも言えよう――の中でも国字問題解決へ熱心な関心を寄せられる人々の数は今な寥々[リョウリョウ:ひっそりとしてもの寂しいさまのこと]たるものではないか。
こういえば人は或いはいうかもしれない。文化財を「持たぬ」人々の運動であるべきローマ字運動は実際上インテリゲンチアの運動ではないかと。しかしそれは「持たざる」国々の現状打破の行動のトップをきるのが必ずしもフィンランドやオーストリーの様な貧小国でないのと同然であり、究極においてローマ字運動が文化的に恵まれていない大衆のための運動であることにかわりなく、現に支那においてはいわゆるラテン化運動はもっぱら労働者層に支持されているということである。
こうした立場で改めて木下杢太郎氏の主張される所を顧みると、その論拠とせられる所があまりにも単なる現状維持の希望にすぎないことを見出すのである。例えば氏は仙台市が「国産愛用デー」という文句を使用したと言って、言葉は国産愛用でなくてよいのかと皮肉を言っていられる。その言やよし。しかし我々から見れば何故「デー」が国産でなくて「国産愛用」という漢語が国産なのかを怪しむのである。一々の漢語は本来日本のものでなくてもそのコンビネーションが国産(!)だからよいのだろうか。ではモ・ガは如何、オールド・ミスは如何?これらも国産愛用を主張し得るだろうか。外国語の流入は「一般文化の上に大害をかもすに至ろう」とされる氏が、漢語の氾濫によって一般文化が既に大害を被っている事実に触れようともされぬのは、氏が「意識的・無意識的に」現状維持を希望されるが故であるとするより外に解釈の仕様があるだろうか。即ち知る、氏の守らんとせられる「一般文化」はとりもなおさず現在の漢語に害せられたる文化なのだ。現在の国語の中における大和言葉・漢語・欧米外来語の比が5:4:1であるとすれば、氏はあくまでこれを維持せんと欲せられるのだ。これが6:2:2になっても、7:1:2になってもそれは氏のいわゆる「一般文化」に大害をなす故に退けらねばならぬのだ。こう考えれば氏の主張は決して的を外れてはいない。たしかに現在バッコしている漢語匪は「大害を受」けるであろう。ただその場合は「一般文化」などという誤解され易い語の代わりに氏は「現在通りの漢語万能文化」という語を用いらるべきであった。
氏はまた「ことばなおし」の効果なき事をのべ、「結論」を「むすび」とし、「子葉」を「コノハ」とすれば握飯・木の葉と誤るおそれがあるとこの人の言とも覚えぬ批評をしていられる。遠足に「結論」を携えて行く子は少ないであろうし、「子葉」が空から散ってくる話もあまり聞かない。しかしそれでも必要があれば“Musubi”と“Omusubi”、“Ko-no-Ha”と“Konoha”としてもすむ事である。こうした不用意な批評をされるというのも、善悪を越えて現状維持を希望せらる「感情的要約」が氏の頭脳を曇らせているからではあるまいか。
氏はまた「ことばなおし」は日本語を貧弱にするといわれる。貧弱ということが語数の減少を意味するならば、ある程度それを認めてもよい。しかし同時に我々は日本で最もすぐれた建物と言われる大神宮の建築や茶室建築が決して材料の量的多さ・大きさによるものではなく、量的には少ない、即ち「貧弱」な、しかし質的にえりすぐられた材料をすぐれたプランに従って組み立てたものであることを記憶したいと思う。
最後に氏の「ことばなおし」を実施すれば「哲学的思考は衰え、従って道徳は廃れるに至ろう。」という御意見は語彙の豊富さと道徳心の強さを正比例せしめるお考えであり我々の理解し得ざる所である。
以上尊敬すべき先達の御意見をかり来って勝手に論じ立てた罪は深くお許しを願う外はないが、氏の如き方でさえそのあまりにも豊かに既存の文化を所有されることにより来る現状維持の「感情的要約」のために、かかる「筆の誤り」をなされる事を知ることは我々後進にとってよき教訓である。
げに国字問題の解決の如きは「当座の便宜主義」によるべからざるは素よりであるがさりとて既存文化を代表する「一国最高の知識と知恵とを動員して始めて行わるべきもの」ではない。未だ持ち得ざる文化をかち得んとして努力する「持たざる」民衆の必要がそれを決定するのである。「文部省の仮名遣い、鉄道省の右書き左書きの問題が幾度かその原則に動揺を来たす」のは、保守・新興の両勢力の間に立って悩む国際連盟の動揺と等しく、素より当然の成り行きである。その終極的解決は既存の秩序の強制に無く、ただ新秩序の建設にある。
(1gt. 19nt.)
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